継承日本語とはなんぞや?

2005年に海外在留邦人数は100万人を突破しました。その後もこの数字は大きくなっているようですが、そのうち30%程度が永住予定者とされています。ベルギーでは永住予定者の割合は20%と若干低くはなっていますが、増加傾向にあるのは世界的な流れと同じです。この傾向はとりわけ国際結婚によって移住してきた日本人女性の増加を反映したものだと言われています。

こうした海外永住予定者の直面する重要な問題の一つが、子供への日本語継承の問題です。それは子供が生まれる以前から必ずと言っていいほど頭をよぎる問題でもあり、生活に直結した関心事です。子供が実際にできれば感じることではありますが、家族とのつながり方に関係する事柄であることを思えば、それは育児の一部分と言っても過言ではないのかなと思ったりもします。

にもかかわらず、継承語の問題は実際には育児と離れた視点から扱われることも多く、そこに「なんか違うぞ?」感というか、噛み合わせの悪さを感じるところでもあります。この違和感のようなものがどこからくるのか考えてみました。

 

継承語の定義

ここで継承語の定義について、今一度確認しておきましょう。一般的な定義としては以下のようなものが提唱されていました。

親から受け継いだ言葉

しかし、単に「親から受け継いだ」というだけであれば、日本社会で育つ日本人の子供達も親から受け継ぐ部分はあるはずなので、扱うべき対象が曖昧になります。そこで、私は以下のように限定的に定義し直しました。

他言語としての現地語が主流の社会の中で、日本人の片親または両親から家庭内においてのみ自然に、あるいは人為的努力を伴って習得される言語

継承日本語に関する問題といった場合、二番目の定義を基礎として、特に日本語に関係する問題と考えてよいかと思います。ただし、気をつけるべきことは、両親ともに日本人である場合と片親だけが日本人である場合とでは事情がまた異なってくることもあり、特に後者の事例を考える際には「日系国際児」や「国際結婚家庭」という限定詞によってそのことを明示するようにしています。

では、実際に継承語問題へのアプローチはどのような観点からなされているでしょうか。

 

社会学的側面

まず社会学的側面からは、それはしばしば政策提言として論じられます。例えば、多文化主義を実現することはその社会にとってプラスであり、マイノリティ言語の継承をいかにして支援するかといったマクロ的な話です。また、受け入れた移民子女の学習支援を考える際に、彼らの母語言語によるサポート体制を構築するといった課題とも関連してくる話です。

しかし、継承日本語の場合、海外でのその学習者は微々たるものであり、現地社会への定着の歴史もごく浅いものです。各現地社会で真面目にその支援を期待するのは非現実的だと思います。それに、継承語は第一義的には家庭内言語であり、現状ではまだまだ私的な親子間コミュニケーションのツールに過ぎません。そこに現地政府や日本政府などの公権力の介入があるのも如何なものかと考えます。現状では、こういった政策提言へと繋げようとする議論とは少し距離を置いた方がいいのではないかと感じています。

 

言語学的側面

言語学的な側面からは、どのようなアプローチができるでしょうか。より一般的な継承語の問題として、出自国でネイティブの話す言語と継承語学習者の話すそれとの比較研究があります。在日世代の韓国語と韓国で話されている韓国語の文法的な差異、あるいはオランダでの研究ですが、オランダで育った中国人と中国の中国語との音韻的な変化に関する研究などがそのようなものになります。

日本語でもこのような差異は見られるはずです。例えば、「あげる/くれる/もらう」の習得の難しさに顕著に表れているように思います。誤用研究の継承日本語版といった感じのもので、継承の躓きを明確にするためにもやってみる価値のある研究だと思いますが、これまでのところ明確に誤用研究としてまとめられたものは見たことがありません。

 

教育学側面

次に、教育学的側面ですが、継承日本語が国語でも外国人が学習する日本語でもないことは早くから指摘されています。「あれでもなく、これでもない」という感覚の中から導き出されたものが継承日本語と言えるかと思われますが、では、具体的に継承日本語の中身は何でしょう。何歳までにどんな語彙を学習し、どれぐらいの漢字を覚えるべきでしょうか。

こうしたいわゆる到達目標やガイドラインのようなものは、公教育の中では然るべき権限を与えられた主体によって設定されます。文部科学省の教育指導要領などというのはその一例です。しかし、公教育に乗っかっていない継承日本語教育にそのようなものはありません。現状、それぞれの家庭で独自かつバラバラに漠然としたゴールが思い描かれているというのが実際ではないでしょうか。

しかし、こうした現実にもかかわらず、その能力・技能を「共通の何かが存在するものとの前提で」指導し、測ろうとした場合、どうしても既存の教材や評価法が援用されてしまいます。国語の教科書を利用したり、筆記能力による評価がよく利用されるのはこうしたことからのように感じられます。しかし、システムにも組み込まれていない、到達すべきゴールもまちまちである継承語学習者、読み・書きまで想定されていない事例が多々見られる中で、それを測定し、「一般的に」上手・下手を判定することは可能なのでしょうか。四技能全てに秀でたネイティブ・モデルは継承日本語の場合、真に目指すべき理想になりうるのでしょうか。

継承日本語教育は「ないないずくしの教育」とよく言われます。これは確かですが、だからこそすべきことの順序としては

 

ゴールを設定する→教授法を考える→教科書をつくる→評価をする

 

ではないかと思います。

一番最初の部分を不問にしたまま、先の段階へと進み、最終的に測ったものの中身とは何でしょう。信頼に足るものなのでしょうか。率直な私の疑問です。

 

心理的側面

日本語継承に関してもう一つ、最も重要な点として心理的側面も忘れてはいけないと思います。子供に日本語を継承させるということは、すなわち、親子の繋がりを意識させ、日本人親の日本との繋がりを確認させ、時期が来れば子供のアイデンティティに影響を与えるようにもなってきます。現在のところ、継承日本語研究の主要なものはこの流れの上にあるように感じます。それはひとえに、継承日本語の問題が子供との繋がりに懸念を抱いた育児従事者の目線から出発しているからだと思っています。現地に生きて行くためには必ずしも必要ではない日本語をなぜ継承させようとするのか。親としてしっかり見つめていかなければならない課題です。

 

 

まとめに代えて

以上のように、ざっと見渡しただけでも継承日本語は様々な切り口から論じられています。しかし、同時に日本語継承問題は育児を通して最も切実に意識されやすい問題でもあります。実際に育児の現場にいる者にとっては意識せずとも、心理的な側面からそれに関わり、育児の外側にいる者はそれとは違った学問上の関心から同じ問題を眺める。この二つのアプローチが渾然一体となって語られている。これが私が感じる噛み合わせの悪さのようなものの正体ではないかと最近考えています。

まずは育児の現場からの「どうしたら日本語を身につけさせられるか」の声にしっかり向き合い、そのための理由づけを振り返り、前に進める知恵を出し合い、(学術的に)知見を深めてゆくこと、何より「みんなで最低限どこまでを目指すか」(それが到達目標か方向目標なのかも含め)を考えることが取り組むべき最初の一歩なのかなと考えている次第です。

 

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