CEFRと継承日本語

ヨーロッパ言語共通参照枠 Common European Framework of Reference for Languages (=CEFR)』というのが、先日のベルギー日本語教師会勉強会でも何度となく出てきました。自分も10年ほど前から幾度となく耳にしていましたが、特に関心も持っていませんでした。日本語学習過程がヨーロッパ言語のそれとはかなり異質であり、ヨーロッパ言語の枠組みで作られたCEFRというものに対して、ある意味懐疑的であったからです。

しかし昨今、海外の日本語教育の現場あるいは日本の外国語教育の現場でもかなりホットなトピックであり、そこを素通りすると研究の不備を指摘されかねないこと。また、到達目標や評価方法など、抽象的な枠組みを模索中であることもあって、強引に継承日本語の中に放り込んでみることにしました。

今回、その中身を吟味するにあたって改めてネットを徘徊してみましたが、結構な数の研究報告が既に出ていますね。びっくりです。

 

まずは、CEFRについて簡単に触れておきましょう。端的にいうならば、それは第二次大戦後、ヨーロッパで作られた言語教育のガイドライン的なものと考えていいかと思います。その根底にある哲学思想としては、従来の多様な言語が並存するだけの多言語的ヨーロッパ社会が生み出す閉塞状況を克服するため、複数の言語を操る個人(母語+二つ以上の外国語を操るヨーロッパ市民=複言語主義)によって異文化理解を促進し(=複文化主義)、ヨーロッパ社会における緊張緩和と恒久平和を実現するというものです(多分・・・汗)。

 

では、具体的な枠組みですが、学習者の言語能力によってA1からC2まで六つのレベルが想定されています。Aは基礎段階の言語使用者、Bは自立した言語使用者、Cは熟達した言語使用者として分けられ、各段階でさらに1, 2と習熟度で区別されています。この各レベルにはまた自己評価表が設定されており、習熟度の評価ができるようになっています。以上、CEFRの具体的内容に関しては『外国語教育〈2〉外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠』という本に収められている資料がネット上で公開されていますので、そちらを併せてご参照ください(資料)。

 

今回はこのCEFRのレベル設定から導かれた自己評価表を使って、長男の日本語を勝手に評価してみることにしました。長男の日本語学習自体をこの枠組みに沿って行ってきたわけではなく、また、まだ小学五年生ということもあって自己評価ではなく、親の目から見た評価ということで代えさせていただきます。

  • 聞くこと:B2相当。日本のニュースなども概要把握はしっかりできている。
  • 読むこと:小学五年生の教科書は無理でも、JLPT N5レベルの文章はほぼ完璧に理解できている。ただ、「漢字が読めない」という日本語独特の状況を前にして、ひらがな多用の不自然な邦語文の読解能力はどう評価されるべきか。
  • 話すこと:「やり取り」はB2+ぐらい。「表現」は敬語などがあるためB1相当か。
  • 書くこと:パソコンを使って書くという条件でA2ぐらいか。

以上、いかがでしたでしょう。バランス悪いですかw?

 

お題的には「継承日本語習熟度合いに関して、その一例をCEFRの中で読み解いてみる」という感じになっているかと思います。

 

このヨーロッパ言語共通参照枠の日本語教育への応用というか、適用は今後、ますます多くの成果が出されてゆくかと思います。逆に、日本の英語教育もこの枠組みに沿った見直しがされるかもしれません。ただし、現時点では日本の英語教育が英語中心主義であるのに対して、CEFRは複言語主義(英語の相対化でもあります)を理想としていることで、両者の間にはまだまだ大きな隔たりがあるように感じます。

 

ところで、CEFRの継承日本語教育への適用ですが・・・。簡単ではないと思います。なぜなら、それが実施されている場が主に家庭であること(「共通性」の確保が難しい)、あるいは補習校などの教育システムは「国語(日本人にとっての母語)」を教える場であること(複言語主義の対極)だからです。CEFR自体が到達評価までを含めたトータルなシステムである以上、その運用には何らかの共通の「箱」(学校のようなもの)が必要になってくるのではないかと感じていますが、そうした「下支え」するものが継承日本語教育の場合、しっかりと根を張っている感じがしません。

今後、各地に広がり始めた継承語学校が、どのようにこの枠組みと関わっていこうとするのかを見守る必要があるとは思いますが。

 

ところで、個人的にはこのヨーロッパ言語共通参照枠の理念の中で継承日本語にとって大きな意味を持つのは次の二点ではないかと考えています。すなわち、

  • 部分的な言語能力の肯定
  • ネイティブを到達モデルとしない

です。

 

最初の点は、言い換えれば、「『話す・聞く』はできるけど『読む・書く』ができない」(あるいはその逆も)でも問題としないということで、これは四技能のバランスが重要視される理想像(恐らく、これがネイティブ・モデルと考えられているものでしょう)とは対極にある考え方です。日本語の場合、漢字があるために「読む・書く」には特別な、それこそエンドレスな訓練が必要です。それを後回しにし、当面はネイティブ並みを目指さない、更に言えば「日本人にする」を目指さないとできれば、継承日本語に関わる親としては肩の力が一気に抜け、「一緒に楽しむ」ことへと支援が繋げられるのではないかと思います。いやはや、大変重要なパラダイムシフトですよ、これは。

 

母語教育という教育システムとは一線を画したゴールの模索過程で、また一つ何か輪郭のようなものを手にした感じです。

 

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