継承語研究の視座

日系国際児の子育てを通して、今日も継承語問題を考える・・・です。

 

海外で継承日本語研究をするにあたって困るのは、邦語文献の確保です。インターネト上でデジタル配布されていればいいんですが、諸般の事情からデジタル化されていないものが結構あります。そういう場合、著者の方に直接メールでデジタル版がないか照会し、あれば特別に配布をお願いすることになるんですが、大抵の場合は「ない」です。幸いなことに、多くの方がご厚意で抜刷りなどを送付してくださるので、これまで何とか目を通しておきたい論文の多くを読むことができました。

 

今回、また非常に気になる論文を見つけたので、著者の方に送っていただきました。お時間を割いていいただいた花井先生にはこの場を借り、改めてお礼を申し上げる次第です。

いただいた論文はいずれも大変勉強になるもので、大いに参考にさせていただきたいと思います。

 

さて、実際に送っていただいた文献から、今回は以下の三点と絡めて考えたことを記しておきたいと思います。

 

  • a.花井理香(2009)「日韓国際結婚家庭児の日本語の継承 -日本人母の視座を通して-」『同志社女子大学大学院文学研究科紀要 第9号』
  • b.花井理香(2014)「国際結婚家庭の言語選択と社会的要因 -韓日国際結婚家庭の日本語の継承を中心としてー」『異文化間教育39号』
  • c.花井理香(2016)「日韓国際結婚家庭の言語選択 −韓国人母の韓国語の継承を中心に−」『社会言語学 第19巻第1号』

 

=「継承」を支える要因=

論文aでは継承語を支える要因として、大きく1.家庭的要因、2.社会的要因、3.日本語学習が持つ要因という三つの要因が指摘されています。1.と2.に関しては、継承日本語教育研究の分野でも指摘されているところで、掘り下げた議論がされています。3.については研究対象というより、日本語継承決断の帰結として当然視されているため、あまり語られることのなかった部分と言えそうです。個人的には「継承」の中身、つまり生活言語能力レベル(例えば日常会話でOK)から学習言語能力レベル(日本語を使って他教科を学ぶ)までの間に様々なゴールが設定できる中、どこまでを目指したいのかという家庭の方針によって左右される要素ではないかと思っています。(我が家も上げ下げに忙しかったりしますw)

 

=言語の威信性と日本語の位置=

例えば、「言語の威信性」という概念ですが、これ自体はベルギー史の中のオランダ語とフランス語の関係を知れば容易に理解できます。昨今、日本語は大きなブームにあり、ヨーロッパでも学習者が爆発的に増えています。しかし、学習の動機は漫画・アニメやJPOPなどのポップカルチャーから伝統文化、あるいは和食などといった文化的な威信に支えられているように思います。経済的な意味で将来設計に寄与するとあまり考えられていない感じで、つまるところ、日本語の威信性とは英語に比肩しうるような性質のものではないようです。「将来役に立つ」というより、バカンスの延長線上に花咲くスペイン語やイタリア語と同じような位置にあるように思います。昨今、レスペクトは感じるんですが。

 

=バイリンガルの優位性=

今回の論文を読ませていただいて、つくづく感じたのはベルギーの特殊性でしょうか。

論文中、考察されていたバイリンガルの中身とは、日本語−韓国語が主なものです。日韓の国際家庭で英語がどのような位置付けになっているのか不明ですが、ベルギーの教育は、バイリンガルを超えてマルチリンガルを目指しています。その中身もヨーロッパ言語が中心で、ここフランデレンではオランダ語(母語)、フランス語(公用語・必修)、英語(国際語・必修)の習得が当面のゴールになります。実際、これらの習得はさほど難しくなく、真面目に学習すれば、普通のベルギー人はこの程度のマルチリンガルにはなります。その上で、日本語を学習するとすれば、それは第四言語的な位置にならざるを得ません。逆に言えば、たとえ日本語が話せても、フランス語・英語ができなければこちらの社会では十分な適応ができるとはいえないということになります。

バイリンガルだけでは有利ではなく不利であり、日本語の順位はまだまだ低いものと考えておく必要があるかも知れません。

ちなみに、昨今、EUレベルで「複言語主義 Plurilingualism」(=母語+二つ以上の外国語の習得を目指す)という概念が盛んに叫ばれるようになりましたが、そこに日本語が入る余地はあるのかについてもあまり楽観的にはなれません。

 

=総論=

私の関心は継承語教育ということで、これまで継承日本語教育の実体に関する論文は色々と読んできました。今回読ませていただいた論文は、そうしたこれまで目にしてきた論文とはやや性質が違うなという印象を持ちました。その違いは言語学と教育学という、依って立つ学問分野の違い、つまり継承語に対する視座の違いに由来するのではないかと思いました。

いただいた論文中には「継承日本語」という語が一度も登場しませんでした。それは恐らく、社会言語学の照準が少数言語の継承という「現象」に当てられているからではないかと思います。継承語教育の関心は、継承される言語の実際の評価にまで踏み込みます。会話に日本語と現地語が混じることを「継承されている」とするのか否かといった点は結構重要な論点になります。「どんな日本語?」も問われるということです。

さらに、単に言語の継承だけではなく子供のアイデンティティにまで切り込んでくることもあります。「日本人性」の継承やそうした傾向に支えられた継承日本語学習を「日本語ナショナリズム」として批判する声も出されるわけです。「国語教育が国民を創造するメカニズムである」とするなら、国語の教科書を使い、親のノスタルジーをくすぐる教育環境で、日本的な年中行事を織り交ぜながら進める継承日本語学習が「日本人の再生産」とみなされる所以です。

 

結局のところ、継承日本語教育はそれぞれの家庭で好きにすればいいんだと思います。日本人の持つ皮膚感覚まで理解してほしいと願うのであればそれを目指せばいいですし。要は、それが誰あろう、日本人親のために役立っている、癒し効果があるということを自覚しておくことが大切なのではないかと思う次第です。

 

 

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