寺子屋の誕生について考えてみた。

ちょっと真面目に継承語教育を考えてみるシリーズです。

以前から教科書、できればどこの継承語教育の現場でも対応可能な包括的な教科書を作れないかと思案してきたところなんですが、そうしたことを真面目に考えるにあたり、三歩進んで二歩下がる・・・いや、一歩進んで三歩下がるという状態に陥っています。ま、この辺は学問を志したことのある方なら似たような経験をお持ちだと思いますが。

 

ムーンウォークしているのは次の点です。

  • 教科書のそもそもの目的とは?
  • そこに反映される学習到達目標の具体的中身は?
  • その法的根拠は?

ここまで来て、まずは日本における教科書の歴史を知らねばならないと思い至りました。で、調べ始めたのが次の諸点。

  1. 日本教科書史
  2. 寺子屋の成立史
  3. 日本における近代教育制度

特に、この2と3は継承語教育の現場の姿と、いわゆる「学校」と一般に呼ばれる教育現場との違いをあぶり出す点で重要だと考えました。

 

日本でいわゆる教科書というものが登場したのはかなり古く、あの「大化の改新」の中心人物中臣鎌足が中国古典を教科書として塾に通ったとあるそうです。まあ、これは古すぎてあまり参考にならないんですが、中世に入ると武士や庶民の子弟が寺院で教育を受けるようになり、いわゆる教訓書が教科書として使われるようになっていきます。「人はこうすべき、ああすべき」ということが書いてあったのでしょうね。

こうした教訓書の類は面白いことに、明治時代になるまで修身の教科書として生きながらえたそうです。しかし、中世以後、近世を通して教科書の主流は『往来物』と呼ばれる書簡集が占めるようになったのだとか。この『往来物』という教科書、農村向けや商人向けなど、現場のニーズに沿ったバリエーションがあったようです。すごいもんですね。

 

さて、自分にとって、教科書を作る上でまず大事に思えたのは、こうした教科書の姿と近世以後の教育現場の状況でした。

より具体的には、明治という近代国家が成立する以前にあって、1)どのような社会的・歴史的要因によって寺子屋などという私的な教育機関が誕生したのか、2)いったい誰に、3)どのような内容を教えたのか、という点です。

日本のこの寺子屋制度というのが当時の世界の状況と比較してどれだけ輝かしいものであったのかはウィキの記述に譲るとして、とりあえず、上の1)2)3)の答えはこうなるみたいです。

  1. 貨幣経済という新しい経済システムの広がりに対する庶民の対応
  2. 町人や経済的に余裕のある農民子弟が主な担い手
  3. 「読み・書き・算盤」と呼ばれるように、実用的な技能を教授した

かなり簡単にまとめてしまいましたが、今、1)発生要因、2)担い手、3)教授内容を継承語教育の現状に置き換えてみます。

  1. 国際化による新しいタイプの家族関係(国際結婚家庭)の広がりとそれに対する教育的対応
  2. 母親または父親に日本人を持つ日系国際児
  3. ???

つまりは、上記1と2を前提として継承語教育が求められるようになり、そのための教科書、というか共通の学習到達目標が求められているのではないかなということです。そして、その中身が何なのかというがの3の「???」であると。当塾の場合、それをしれっと「常識力」と呼んでしまっていたりするんですが。

当たり前ですが、日本語継承語教育というのは国家権力が音頭をとってくれるようなものではありません。マイノリティのための政策として実施されている例はあるようですが。で、国家権力の枠外にある限り、状況はやはり寺子屋的な発生要因とニーズを考えながら現状理解に努めるのが辿るべき道筋なのではないかと思います。問題はどうやってそのニーズを捉えるか、ですね。一応、アイデアはありますが、長くなったのでそれについてはまたいずれということにしておきたいと思います。

 

《お知らせ》
日本語塾では一緒に日本語を学ぶ仲間を募集しています。「日本」という共通のバックグランドを持つ子供たちの友達作りの場にもなります。ご興味のある方はこちらから是非ご連絡ください。

応援していただけると更新がんばれるかもです。→ブログランキング・にほんブログ村へ 

スポンサードリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA